記憶形成は水と油の関係から ―脳内での新しいタンパク質集積機構―

提供:林 康紀研究室
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概要

 私たち人類は知識や技術を記憶することで文明を築き、大切な人の顔や出来事を記憶することで日常を過ごしています。記憶とは見たものや食べたものといった一時的な情報を脳内に保存する脳機能ですが、体外の分子が直接脳内に入ってきて保存されるわけではなく、脳内の分子が何らかの変化をすると考えられています。しかしそれがどのような変化かはわかっていませんし、体内の分子は常に別の分子と入れ替わっているため、記憶を一生涯保つこともできるのは不思議でした。京都大学大学院医学研究科の林康紀教授、細川智永特定研究員(研究当時、現:名古屋大学講師)、劉品吾博士課程学生らの研究グループは、学習時の刺激により脳内のタンパク質が集合体を形成することを明らかにしました。脳細胞の中は水で満たされていますが、この集合体はあたかも水に浮かぶ油のように細胞内の水から自発的に分離し集合していました。こうして分子たち自身が自分の居場所を記憶することで分子の入れ替わりを可能にし、私たちは記憶を一生涯保つことができるのです。この新発見の機構を応用することで、アルツハイマー病などの治療ができるのではないかと期待しています。

背景

 シナプスの可塑性は学習と記憶の基盤メカニズムであると考えられているが、シナプス長期増強が瞬時に成立しかつ永続する分子機構は不明であった。近年、細胞内におけるタンパク質の新しい振る舞いとして、液-液相分離による集合体形成が注目されている。細胞生物学における液-液相分離とは細胞質中でタンパク質や核酸が液体としての性質を持つ集合体を形成する現象であり、脂質二重膜で区切られていないにも関わらず細胞質から明確に分離して安定するこの集合体は、新奇な役割を持つ膜のないオルガネラとして注目されている。我々はこの集合体がダイナミクスと永続性を両立することが要求されるシナプス可塑性のための理想的な性質を持っていることに注目した。

図1. CaMKIIによる液-液相分離
CaMKIIの活性化により、NMDA受容体(緑)とAMPA受容体(赤)が分離した。
図2. 液-液相分離による細胞表面受容体の分離と濃縮
CaMKIIの活性化により、AMPA受容体(赤)が伝達物質放出部位の直下に濃縮される。

研究手法・成果

 シナプス活動によるカルシウムイオンの細胞内流入が記憶形成のトリガーであることはよく知られている。そこで我々はカルシウム依存性キナーゼがシナプスタンパク質群の集合体形成に中心的な役割を果たすと仮説を立て、カルシウム依存性キナーゼおよび代表的なシナプスタンパク質の精製タンパク質を混合しカルシウムイオンを試験管内で添加したところ、液-液相分離による集合体形成が観察された(図1)。この集合体はカルシウムイオンを除去しても持続する可塑性を持っていることも確認された。さらに興味深いことに、複数のシナプスタンパク質群が混在する環境下では、集合体内にさらに別のタンパク質が集合を形成する相内相が形成された。このことはタンパク質のみで複雑な構造を持つ細胞内構造体を形成できることを示している。そこで超高解像顕微鏡を用いてシナプスを観察し、この集合体形成の生理的意義を調べたところ、集合体形成により後シナプスタンパク質の局在と前シナプスタンパク質の局在を整列しシナプス情報伝達の効率を強化していることが示唆された(図2)。以上の成果は、シナプス可塑性および記憶形成の新しい分子機構を提示し、アルツハイマー病等の記憶障害の治療にむけた取り組みを大きく前進するものである。

波及効果、今後の予定

 本研究は記憶の形成・維持を担う新しい分子機構を提案したものである。液-液相分離による蛋白質集合体の離合集散は小分子やペプチドによって制御できることが示唆されており、記憶障害を伴う疾患の治療法確立への応用が期待できる。また光でタンパク質の活性や局在を制御する光遺伝学の技術と相性が良く、記憶研究の新たなツールとして活躍することが期待される。一方で、実際にシナプスで集合体を形成しているタンパク質の種類は数百種類と考えられるが、これら一つ一つの挙動を理解しなければ記憶の分子機構としての集合体形成を完全に理解することはできない。網羅的な解析手法の開発が望まれる。

研究チーム

 本研究は京都大学、香港科学技術大学(張明傑教授のグループ)、ボルドー大学(Eric Hosy教授、Laurent Groc教授、Daniel Choquet教授、Jean-Baptiste Sibarita教授らのグループ)との共同研究として実施された。

研究支援

 本研究は以下の研究資金のサポートによって行われた。理化学研究所理事長ファンド、京都大学SPIRITS 2019、文部科学省科学研究費補助金20240032, 22110006, 16H01292, 18H04733, 18H05434、CREST JPMJCR20E4、フランス大使館 Programme Exploration France、上原記念生命科学財団、内藤記念科学振興財団、光科学技術研究振興財団、ノバルティス科学振興財団、武田科学振興財団、日本応用酵素協会(林)、科学研究費補助金17K14947, 18KK0421, 19K06885、Takeda Science Foundation(細川)、また、文部科学省科学研究費補助金、Simons財団および香港研究助成評議会(張)、Human Frontier Science Program(RGP0020/2019)(林と張)、フランスCRCNS-NIH-ANR AMPAR-Tフェローシップ(Hosy)、CNRS、Agence Nationale de la Recherche(DynHippo)(GrocとFerreira)。

筆頭著者のコメント

 記憶は人間を人間たらしめる最も重要な能力ですが、わかっていることは多くありません。加齢・病気・事故により記憶を失ってしまうことは、肉体の損傷と同じかあるいはもっと大きな悲しみを伴います。また、過去の悲しい記憶に囚われて前向きに生きられなくなることもあります。私たちは記憶形成の分子機構の研究を通じて、人間がより人間らしく生活できる世界を実現したいと願っています。

参考文献

  • Hosokawa Liu Nat Neurosci 2021.pdf
    Hosokawa, T., Liu, P.W., Cai, Q., Ferreira, J.S., Levet, F., Butler, C., Sibarita, J.B., Choquet, D., Groc, L., Hosy, E., Zhang, M., & Hayashi, Y. (2021).
    CaMKII activation persistently segregates postsynaptic proteins via liquid phase separation. Nature neuroscience, 24(6), 777-785. [PubMed:33927400] [WorldCat] [DOI]